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【骨董】「裸の大将!」山下清画伯

2018.08.17

山下清

 

 

 

 

裸の大将!山下清画伯の一生について

絵画

「裸の大将」として国民的認識が高い山下清画伯は1922年(大正11年)現、東京都台東区日本堤で生まれています。

翌年に関東大震災に見舞われ東京が焼け野原になって両親の郷里である新潟件の白山に転居しますが、3歳の時に重い消化不良になり高熱が続き命はとりとめたものの「言語障害、知的障害」の後遺症が残ることになった。 というのが通説になっております。

少年期に知的障害児施設である「八幡学園」へ預けられここでの生活のなかで「ちぎり紙細工」に出会い才能を開花させてゆきます。

1938年(昭和13年)~1939年に展覧会が開催され山下画伯の作品は多くの人々から称賛を浴びて、その表現の美しさと烈しさは「ゴッホ」の水準に達していると評価されました。

山下清画伯はテレビドラマの影響で、放浪癖とおにぎり好き、ランニングシャツにリックサックを背負った姿、お世話になったお礼に絵画やちぎり紙細工を全国に残して歩いたように一般的に思われているのですが、実際はそうではなかったようです。

八幡学園の在籍は長かったのですが18歳の時に突然放浪の旅への脱走が始まるのですが、絵画を作成するための放浪ではなく「徴兵検査」を受けるのが嫌だったと晩年語られそうです。
実際は知的障害による兵役免除になるのですが・・・。
現在、JR我孫子駅にある唐揚げ蕎麦で有名な「弥生軒」で住み込みで働いていたのもこの頃だそうです。

戦後の活動として全国で山下清展が130回行われ、観客は500万人を超え、その評価は不動のものになってゆきました。
式場隆三郎氏等と約40日間のヨーロッパ旅行にも出かけており各地の名所を絵に残しました。

晩年は「東海道五十三次」の制作を志して京都までのスケッチ旅行に出かけ5年間で55枚の作品を残した。
ドラマでは「僕はおにぎりがすきなんだなぁ。」というセリフが毎回のように出てまいりますが、実際はかなりなグルメだったようです。

また、高血圧による眼底出血があり、1971年(昭和46年)に脳出血のために49歳という若さで死去されました。

この間テレビで拝見したのですが、我孫子の弥生軒のお弁当の包み紙のデザインもされていたのには驚かされました。

 

驚異的な記憶力

山下清画伯は「サヴァン症候群」であったのではないか?と言われています。

放浪した行く先々の感動した風景をその場で作品として作成したことはなく、情景そのもの、感動そのものを記憶して帰ってきて貼絵作品と仕上げる能力を持っていたからです。
その驚異的な映像記憶力は一つの能力だけ特別に鋭く発達する「サヴァン症候群」であったといわれる所以になったのだと思いますが、そうだったのかどうかは今となっては定かではありません。

 

贋作

山下清画伯は「花火」が大好きだったようで、「長岡の花火」は有名な作品です。
花火大会は足繁く通われていたようで、その感動を作品として仕上げる手法は人々の感動を誘います。

ただ、ほとんど学園や自宅で作品を仕上げております関係からご遺族が保管されていると伺ってます。
ただ、テレビドラマの影響で「お世話になったお礼に各地に作品を残した。」という風に信じられており、本物を偽った贋作展覧会が開催されることがあると言われています。

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